運動会が運動嫌いをつくる

 日本の学校では、「学校行事」なるものが大変盛んである。コロナ禍、学校ではこうした行事が出来ず、メディアなどの取り上げ方も、行事を楽しみにしている子供たちがかわいそうであるとしたものが多いようである。もちろん運動会などの学校行事を楽しみにしている子供たちもいるだろう。しかしそれがすべてではなく、中止されたことでホッとしている子供たちも少なくないと思うのである。元々運動が好きではない、っというよりも嫌い。まして、走るのは遅くて、徒競走はいつもビリ・・・。こうした子供たちにとって、コロナ禍による運動会の中止はまさに、天の神様がくれた素晴らしいことと思っているのではないだろうか。運動会だけではない。展覧会なども同じではないか、絵を描くのが下手である、不器用で工作はダメ、合唱祭においては音痴でうまく歌えないなど、それらを苦手とする子供たちにとって学校行事はまさに苦痛以外のなにものでもないはずである。ただでさえ、体育、美術・図画工作、音楽の授業で自分の醜態を友達に曝し、日々いやな思いをしている子供たちが、さらに大勢の保護者や地域の人々にも自分の醜態を曝さねばならないのである。これがきっかけとなり不登校になる子供もいるようである。

 欧米諸国の学校においても学校行事は存在するらしい。しかし、日本と決定的に違うのは、欧米諸国の学校においては、行事の参加は個人の選択制であるということらしいのである。つまり、それぞれの行事について参加の有無は個人に任されるのである。得意なものに参加し、不得意なものには参加しない。もちろん、参加の仕方も見学のみでもよいという所も多いらしい。現在、日本の中学校において体育理論という授業が行われているはずである。この授業で、体育・スポーツの参加の仕方として「する・見る・支える」と行った参加の仕方があり、自分の一番よい方法で参加すればよいということを教わるのであるが、日本の運動会では、「する・見る・支える」すべてで参加しなければいけない。これは、教えていることと、実際に行われていることと矛盾しないのだろうかと思うっているのは私だけではないだろう。

 近年、運動会での組み体操が批判されたが、その実施についての議論は、安全に行うためにはどうすればよいのかといったことのみで、参加不参加については自由ではないのかといった議論は目にしなかった。同調圧力が話題になり、同じことを同じようにやらなければならないといった、日本の学校についての批判があるが、学校行事に関しての話題を目にしたことがないのである。コロナ禍で学校行事が思うように出来なくなっている今こそ、学校行事で泣いている子供たちのことを思い、学校行事の在り方についての議論して欲しいものである。

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